国立科学博物館『科博ニュース』450号(2006. 9.20)掲載
南方旧蔵の『ネイチャー』誌表紙
『ネイチャー』は、イギリスの天文学者ジョゼフ・ノーマン・ロッキャー(1836-1920)が1869年に創始した週刊科学雑誌です。ロッキャーは、はじめは陸軍省に勤務していたアマチュアでしたが、太陽スペクトルの分析によってヘリウムを発見するなど、最新技術を応用して多くの業績を挙げ、また当時黎明期にあった天文考古学(天文学の知識を、先史時代研究に応用する)の開拓者でもあり、さらに一般読者のための啓蒙的著作が多数あるなど、たいへん活動の幅の広い科学者でした。後には、イギリス科学振興協会会長などもつとめ、また1913年には、ノーマン・ロッキャー天文台を設立しています。
その彼が創始し、半世紀にわたって編集長をつとめた『ネイチャー』は、今日では世界中の自然科学者たちからもっとも注目されている専門誌です。しかし、さまざまな学会や大学の研究紀要などとはことなり、『ネイチャー』はもともと、「自然科学をすべての人の手に」というロッキャーの理想に基づいて、一般読者のための啓蒙的刊行物として始められました。自然科学研究の最先端のトピックや各種学会の動向を伝える短報欄や、高度な専門家による解説記事とならんで、読者の投書を載せる「編集部来信(レターズ・トゥ・ザ・エディター)」欄も、充実していました。これは、掲載記事や論文を読んだ読者からの投書が掲載される欄です。そこでは、ひとつの問題について読者の間で議論が続けられることもありましたし、また専門家ではない読者からの質問や、新たな問題提起が掲載され、これに専門家からの回答が寄せられることもしばしばありました。このように、「自然科学」を専門家だけのものとはしない、開かれた性質がもともと『ネイチャー』にはあったのです。
南方熊楠は、1893年10月5日号掲載の「東洋の星座」をかわきりに、1900年9月に帰国するまでのロンドン時代に38篇、帰国後も1914年までに13篇の投書を『ネイチャー』に掲載しています。さまざまな古代文明の星座の名付け方がどのようであったか、またそれらを比較することが先史人類学上有意義かどうかという問題提起をする匿名の投書への回答として書かれた「東洋の星座」をはじめとして、それらのほとんどは、この「来信」欄に掲載されました。これらは、この欄に掲載されていた質問への回答や、他の記事へのコメントもあれば、新しい問題を提起して情報提供を求めたものもあります。分野も、南方の本来の専門である「隠花植物」についての地味な観察報告から、世界各国の古い文献に見られる記述を今日の自然科学の目で解釈するもの、さらにはいろんな地域の風俗や伝承の比較研究まで、実にさまざまです。その頃、同じ欄には、彼が学生時代に学んだ本の著者たち(ハーバート・スペンサー、アルフレッド・ウォレス、エドワード・モースら)もしばしば投書しており、彼らの記事が南方のものとならんだことや、またモースの投書に南方がコメントをしたこともありました(「虫に刺されることによる後天的免疫」1897年10月21日号)。
南方は滞英中、東洋文化(とりわけ仏教美術など)を英語で説明できる貴重な人材として、大英博物館の東洋部門に貢献することになりましたが、この博物館の東洋部門員たちと出会ったのは、生涯で初めて自分の文章を公刊することになった「東洋の星座」を執筆していたのと、ちょうど同じ頃のことでした。大英博物館で東洋美術の収集を推進していた一人であるフランクス卿を初めて訪ねた日に、南方は見せられた仏像や神具の解説をする一方、自分の論文の校正刷りを見てもらったのですが、そのとき受けた歓待のことをのちに回顧して「まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊ときを知ると小生思い申し候」(「履歴書」)としるしています。また、編集長ロッキャーとも親交が出来ました。古代人の天文学的知識に関心の深かったロッキャーにとっても、中国とインドの古代文明における星座についての南方の議論が興味深いものだったことは、じゅうぶん考えられます。大英博物館の収集品調査に協力しつつ、同館図書室で思うまま読書を続け、研究ノートを次々と『ネイチャー』に投稿していたイギリス滞在の日々は、いかにも充実した彼の青春でした。その頃の執筆活動について彼はのちに、「たびたび『ネーチュール』に投書致し、東洋にも(西洋一汎の思うところに反して、近古までは欧州に恥じざる科学が、今日より見れば幼稚未熟ながらも)ありたることを西人に知らしむることに*勖[つと]めたり。」(「履歴書」)と述べています。 [*勖=冒+力]
歴史的にみても、南方は『ネイチャー』に文章を掲載した最初期の日本人の一人でした。1894年の創刊25周年に際して、『ネイチャー』は記念別冊を作成、これには過去25年間の寄稿者700余名のリストが掲載されましたが、この中で、日本人の名前は伊藤篤太郎(ケンブリッジ大に留学していた植物学者・のち東北大専任講師、1865年生で、くしくも南方と同年の1941年死去)と自分の二人だけだったことを、南方は後年の書簡で何度かしるしています。そして、彼の掲載記事数51本は、その後今日まで誰にも抜かれていないようです。
(成城大学 田村義也)
[以下、紙面の都合で削除された結び]
南方の英文著作のほとんどは、これまで英語原文で読むしかありませんでしたが、昨年冬に『南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇』が刊行され、『ネイチャー』掲載記事のすべてと、関連する文章が日本語で読めるようになりました。